二つのナス科植物
ナランジラの実がついています。
ナス科、南米原産で、学名はSolanumquitoense。
5cmほどの実の中は透明がかったうす緑で、
さわやかな酸味と甘みがあります。
産地では、サラダやジュースにしたり、
シャーベット、パイや砂糖漬け、
発酵させてお酒を造ったりもするそうです。
葉脈や葉の縁が紫がかり観葉植物としても人気です。
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ナス科で紫といえば、今日ちょうど子供のミニ畑の
ナスが実り(自然栽培なので少し虫食いですが)
お昼の焼きそばの材料になりました.
「自分で作ったナスはおいしいね~!!」
と、もりもり食べていましたよ。
さて今日は、石川真治さんのお話の続きです。
9月24日の記事から続きます。
ロシアとの戦争に負け、
満州からロシアの捕虜として連行された石川さん。
強制労働の毎日が約3年続きます。
初めは「運動不足の解消」と仕事に連れて行かれたそうです。
けれどもその仕事には、
石が何立米、木なら何立米と、分隊単位でノルマがあり、
こなせないと夕食のパンが減ります。
分隊といっても、すでに敗戦国の捕虜。
武器も奪われ、強制労働の日々でも、
あくまで日本軍という組織として小隊や分隊が編成され、
隊員の増減による組み替えも日本人が行います。
「一日も早く日本に帰りたい」一心の団結だった、
とおっしゃいます。
何十万、何千万という捕虜のうち、
病人など労働力として使えない人は、ナホトカ→舞鶴という
経路の船に押し込まれ、日本に帰国します。
収容中に栄養不足のために脚気になり、
足を引きずって労働に行き、翌朝亡くなっていた方も・・・。
「内地の都市からの新兵の若者が案外弱かったね。
私は満州で数年過ごし、寒さにも慣れ、
野草の知恵もあったから、どこでも生きられた。」
また、農学校の仲間でも、「未帰還者」といって、
向こうで亡くなったか、または、
共産主義に共鳴してロシアの地に落ち着いたのか、
とうとう日本の土を踏まなかった方も・・。
さぞかしつらい毎日だったろうと推察されるのですが、
石川さんのお話には、思わず引き込まれます。
「収容所では、零下45度以下になると、
捕虜に仕事をさせない、という決まりがあって、
それを守ろうとする年配女性の軍医(大佐)と、
働かそうとする男性所長(大尉=大佐より下の地位)が、
しょっちゅう喧嘩しとったね。
男女同権や、捕虜の体を守ろうとする事があった。
ロシア人も、個人的には
付き合うと良い人がたくさんおったよ。」
「だんだん働く要領をつかんで、
これはうちの隊だけかもしれないが、石でも木でも、
少しでも早く大きく積み上げる工夫をした。
(つまり、はりぼて風!)見つかったら怒られるが、
見つからないようにうまく工夫していた。
というのも、ロシアは共産主義の国だから、
誰のお腹も痛まない。
冗談で、『君の物は僕の物、僕の物は僕の物』
と言っておったよ。
監督のロシア人は5時の鐘が鳴ったら、
細かい事を言わずに、誰よりも真っ先に帰る。
その後、打ちかけの釘もそのまま、
ゲンノウも放り出して、たった今立てた柱を引き抜いて、
収容所のペーチカの薪として持って帰ったよ。
収容所長も捕虜に、作業で集めた木(国家の財産)を
薪として取って来させていた(一種の横領?)。
コルホーズやソフホーズなど、
ロシア人は毎日5時まで国家の一員として
農家団体や共同作業に従事するが、
5時からは自由になる。
そうするとそれまで、おしゃべりしたり、
遊んだり、休んでいた国民が、5時からは、
自分の広い敷地の農園で日が暮れるまで一生懸命働く。
そこで出来た農産物などは、自由市場で売って、
自分のお金にすることが出来たから。
捕虜も2~3年目からは、
小遣い程度のルーブルが配給されて、仕事帰りに
自由市場で卵などを買って帰ることも出来たよ。」
~~~明日に続く~~~~~
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